デザインメタ認知思考

デザインを作ることは、メタ認知である

2026年7月2日

デザインを作ることは、メタ認知である

自分でデザインを考えるとき、自分が作ったものの良し悪しを自分で判断するのは、意外と難しい。

それでも、ポスターやパンフレット、冊子などを作る中で、どうすればもっと伝わりやすくなるのかを自分なりに考え続けてきた。その過程で、単にデザインの技術だけでなく、自分の考えや見方を一歩引いて捉える力、つまりメタ認知の力が育ったように思う。

STARCLEのポスターを実際に作っていたときの写真。
STARCLEのポスターを実際に作っていたときの写真。

自分のデザインほど、客観視しづらい

デザインの客観視が難しい理由の一つは、自分がそのデザインを見すぎているからだ。

試行錯誤を重ねるうちに、そこに載っている情報はすべて自分にとって既知のものになる。どこに何が書いてあるのか、どの要素が何を意味しているのか、自分はすでに理解している。

しかし、見る人にとってはそうではない。

デザインにおいて重要なのは、情報の拾いやすさである。ポスターであれば、ぱっと見たときのインパクトと、一瞥で拾える端的な情報。パンフレットや冊子であれば、見出し、概要、本文の配置によって、読み手が必要な情報に自然とたどり着けること。

全部読んでもらう前提ではなく、どこに何があるのかを感覚的に把握できることが大事だ。

この視点が抜け落ちると、デザインは自己満足で終わってしまう。

もう一つの理由は、自分で作ったものには、どうしても愛着が湧いてしまうからだ。

自分としては、時間をかけて考え、悩み、手を動かして作った「作品」である。そのため、自分の中では必要以上によく見えてしまうことがある。

これは、自分で作った料理がいつもよりおいしく感じることに近い。

あるいは、Minecraftで試行錯誤の末に頑張って作った家が、自分には立派な建築物に見えていても、他人から見ればただの豆腐小屋に見える、あの感じに近い。

だからこそ、デザインは誰かに見てもらうことが大事だと思う。

一方で、毎回必ず誰かに見てもらえるとは限らない。自分でチェックしなければならない場面も多い。そのときに必要になるのが、自分のデザインを他人の目で見る力である。

その力を鍛える作業は、まさにメタ認知そのものだった。

学園祭のパンフレットを実際に作っていたときの写真。
学園祭のパンフレットを実際に作っていたときの写真。

一晩寝かせて、初見の目を取り戻す

自分がIllustratorでポスターやパンフレット、冊子のデザインを作っていたとき、よくやっていた確認方法がある。

それは、一度プロトタイプを完成させたあと、しっかり寝て、翌朝起きた瞬間にそのデザインを見ることだ。

朝起きてすぐの頭がまだ回りきっていない状態で見ると、先入観が少ないままデザインを眺めることができる。作っている最中には気づかなかった違和感や、情報の拾いづらさが見えやすくなる。

特に、ぱっと見たときに必要最低限の情報が入ってくるかどうかを確認するには、この方法がかなり有効だった。

もちろん完全に他人の視点になれるわけではない。それでも、作り手としての自分から少し距離を置き、読み手として見直すための工夫ではあったと思う。

実際に作成したSTARCLEのロゴマーク。
実際に作成したSTARCLEのロゴマーク。

デザイン思考は、観察眼でありクリティカルシンキングである

デザインをするようになると、身の回りのデザインにも目が向くようになる。

街中のポスター、駅の案内表示、商品のパッケージ、大学の掲示物、Webサイトのボタンや余白。普段何気なく見ているものの多くは、誰かが意図を持って設計している。

フォント、文字色、余白、行間、写真の切り抜き方、情報の優先順位。そうした細かい要素に目が向くようになると、プロが作ったデザインの繊細さに気づく。

身の回りのデザインはよく考えられている。
身の回りのデザインはよく考えられている。

一方で、明らかに素人が作ったであろう掲示物や資料を見ることもある。市役所や学校、研究室の掲示などでは、情報は載っているのに、なぜか読みづらいものに出会うことがある。

そのとき、ただ「見にくい」と感じるだけでなく、なぜ見にくいのかを考えるようになった。

文字が小さいのか。余白が足りないのか。情報の優先順位が整理されていないのか。色数が多すぎるのか。見出しが機能していないのか。

そして、自分ならどう直すかを考える。

この過程は、かなりクリティカルシンキングに近い。目の前のものをそのまま受け取るのではなく、構造を観察し、問題点を分解し、改善案を考える。

デザインを作ることは、単に見た目を整えることではない。

情報をどう届けるかを考え、その結果を自分で疑い、他人の視点から見直すことでもある。

生成AI時代に、手を動かす意味

最近は、ChatGPTやGeminiなどの画像生成機能が非常に優秀になっている。

これまでなら長い時間とこだわりが必要だったデザインも、短いプロンプトだけでかなり高いクオリティのものが作れるようになった。これはとても便利だし、生成AIによって作られた作品そのものを否定するつもりもない。

むしろ、うまく使えば表現の幅は大きく広がると思う。

ただ一方で、少しだけ懸念していることもある。

それは、デザインを自分の手で考え、悩み、失敗しながら作る経験が減ってしまうことだ。

自分はデザイン制作を通じて、客観視する力、観察する力、違和感を分解する力を身につけた。完成物だけを見れば、生成AIの方が早く、きれいで、完成度が高いことも多いと思う。

しかし、手を動かして作る過程には、完成物とは別の価値がある。

なぜこの配置だと読みにくいのか。なぜこの色だと伝わらないのか。なぜこの余白が気持ち悪いのか。なぜこの見出しでは目に入らないのか。

そうした問いを自分に向け続けることが、結果的にメタ認知や観察眼を鍛えてくれた。

生成AIによって、誰でも高品質なビジュアルを作れる時代になった。

だからこそ、これからは「きれいなものを作れること」以上に、「なぜそれが良いのか」「誰にどう見えるのか」「何を伝えるためのデザインなのか」を考えられることが重要になるのだと思う。

デザインを作ることは、見た目を整える作業であると同時に、自分の認知を疑う作業でもある。

そう考えると、デザインは単なる制作物ではなく、自分の思考を鍛えるための鏡のようなものだったのかもしれない。

実際に作成した学園祭のパンフレットの一部。
実際に作成した学園祭のパンフレットの一部。